退院した翌日。こどもたちは学校へ行き、旦那は会社へ行き、家の中で一人になった。
何ともいえない不安がモヤモヤモヤっと押し寄せてきた。
これからどうなるんだろう・・・
パソコンをつけてみた。
乳がん 治療 検索
たくさん出てきた。
いろいろな方の体験談も出てきた
読んでみた・・・なんか私とちょっと症状がちがう・・・
私と同じような方はどれかな・・・
何件も何件も読んでみた。
ステージ
マイナス
何だろう
私はどれなんだろう・・・
見れば見るほどわからなくなった・・・その時はまだ病理検査結果が出ていなかったので見てもわからなかったんだけど。
気づいたら、3時間くらいずっと検索していた。
そういえば、先生から前に忠告されたことがあった。
「ネットはいろいろな情報が出ている。見れば見るほどわからなくなる。だから見すぎないようにね。この冊子をあげるからこれを読んで見て。これは正しい情報だから」
そうだ
そういえば、先生がそんなこと言ってたっけ。
そう思いながら、・・・
ひとりでいるときは不安から結局何日もパソコンの前から離れられなくなった。
元気だし家にいてもやることないし、不安になるし・・・こんなことなら会社に行こう。・・・・
・・・これが私の間違いだった。
病理検査結果が出る前=つまり、治療方針が決まる前だったのに、会社に出社してしまったから。
傷病休暇をせっかく会社が取らせてくれていたのに、私は早まってしまった。
会社に行くとみんな心配してくれ「大丈夫?」と声をかけてくれた。
私も少しか弱い感じで・・「なんとか大丈夫です」と答えた。
それから1週間後検査結果が出て、治療方針を先生から説明された。
先生「あなたは抗がん剤をした方がいい。ホルモンは合わないタイプだね。だからホルモン治療はないよ。それと部分切除だから放射線もするけれど、先に抗がん剤からやったほうがいいかな」
私「・・・抗がん剤ですか・・・でも手術も大丈夫だったから、抗がん剤も何とかなりますよね?!」と先生を覗き込んだ。
先生「抗がん剤は・・・そういうわけにはいかないんだ。・・・でもあなたの場合はやったほうがいいと思う。自分の家族でもぼくはすすめる。抗がん剤は副作用が大変だけど、みんなそれを乗り越えている。だからあなたも乗り越えられると思うよ。ただするかしないかはあなたが決めてね」
なんか、受験をして不合格と言われ、この先どうしよう・・・と悩んでいる生徒のような気持だった。
そうだった。手術の説明の時に、先生が、治療方針は手術後に決まるけど、もし抗がん剤になっても何とか乗り越えてほしい・・・中には経済的理由で辞めてしまう人もいるけど・・・再発していることもある。だから、抗がん剤をやったほうがいいとなった場合はやってほしい。
そんなこと言われたよね・・・
やってほしい・・・ではなく、やったほうがいい・・・だったかな。
でも、私はまだ甘かった。
手術は大丈夫だったから、私は副作用も軽いかもしれないし、脱毛もしないかもしれないし・・・かすかな期待をしていた・・・私は「大丈夫」・・・根拠のない自信・・・
そして、抗がん剤投与1回目。
先生が針を刺してくれた。そのあと点滴室へ。
ベッドが何台か並んでいた。
寝るのは得意。
寝ちゃおう。そんな風に思った。
まず吐き気止めの薬を飲んだ。
看護師さん「この薬が最近出たとても良く効く薬で、吐き気を抑えるイメンドカプセルという薬なんです。3日間必ず飲んでくださいね。」
そして、点滴開始。
副作用を抑える薬から点滴され、その後オレンジ色の抗がん剤が投与された。
冷たい液が手首から体に入ってきた。血管を通過しているのがわかった。
カチャカチャカチャ。
看護師さんがストップウォッチで点滴の速さを計る。
大丈夫。大丈夫。・・・何回も自分に言い聞かせた。
カチャカチャカチャカチャ。
投与中、何回も何回も抗がん剤点滴の速さを看護師さんが確認しに来た。
「終わりましたよ。」
声をかけられ、目が覚めた。
体が重い・・・だるい・・・むくんでいる・・・
「気分は大丈夫ですか?」
私「・・・はい。・・・多分・・・」
看護師さん「お気を付けて帰ってくださいね。薬を薬局で受け取り帰ってくださいね。誰か迎えに来てくれていますか?」
私「・・・はい。妹が・・・ありがとうございました」
薬局では、副作用を抑える薬の量に驚いた。
8種類13粒。
今までこんなに大量の薬を1回に飲んだことがない。
薬剤師さん「これは吐き気止め。これは胃腸薬。これは整腸剤。・・・ここに薬の飲み方が書いてありますから。何かあれば連絡下さい」
1回聞いただけじゃわからないよ・・・
がん患者ってみんなこんなにたくさん薬を飲むの?・・・
ご年配の方もこんなにたくさんの薬の飲み方がわかるの?・・・
みんなすごいな・・・
そんなことを思っていた。
家に着くと、ムカムカしてきた・・・
気持ち悪い・・・トイレに行ったが・・・気持ちが悪すぎてトイレから出られない・・・
食事は看護師さんから軽いものの方がいいでと言われたので、バナナしか食べていなかった。(多分、消化の良いものという意味を私が勘違いした)
今まで3食の食事を抜いたことはほとんどなかった。
気持ち悪い・・・
トイレから出た後、胃が痛くなった・・・痛くて痛くて転げまわるくらい・・・
あまりの痛さに、病院へ電話した。
「今日抗がん剤の治療をしたものですが、吐き気と胃が痛すぎて・・・」
病院担当者「水分は取っていますか。水分をたくさん取ってください」
「わかりました・・・」
そうだ。水分を取って、早く薬を出したい・・・そんなイメージで水分補給をした。。。
友人からメールが来た「大丈夫?」と。「気持ち悪い・・・」「何とかなるから気分転換して・・・」「・・・気持ち悪い・・・」
申し訳なかったが「気持ち悪い・・・」以外の言葉が見つからず、それしか返信できなかった・・・
その日は、ずーっとトイレにいた・・・
気持ちが悪すぎて、胃が痛くて、眠れなかった・・・
今までどんなことがあっても眠れなかったことがなかったのに・・・
こんな状況が翌日も続いた・・・
3日目になったら、少し落ち着いてきて食べられるようになった。。。
食事は毎日実家で作って持ってきてくれた・・・ありがたかった
金曜日に抗がん剤をして、月曜日はとても仕事に行ける状況ではなかった。
月曜日、火曜日、水曜日は昼間は実家に行かせてもらい、ほとんど寝ている状況だった・・・
意識がもうろうとしていた・・・だるくて体もむくんでいて・・・
木曜日・・・今日は仕事に行かなければ・・・無理をして行った。
机に座っているのがやっとだった。だるい・・・
金曜日、診察の日だった・・・
先生に抗がん剤の投与後の状況を話した。
そして、副作用を抑える薬が多くて飲めなかったことも・・・(無理をして飲んだけれど)
そして翌週は少し元気になってきた。
2週間目の診察は検査だけだった。
先生からは「そろそろ脱毛が始まるからね」と言われた。
そのとおり2週間を過ぎるころ、抜け毛が増えてきた。
最初は服に抜けた髪の毛が着くようになっていたが、翌日はその抜ける量が増えてきて・・・
まるで枯れ葉がひらひらと落ちるように・・・
枕にはタオルを巻いていた。日に日にタオルにも着く髪の毛の量が増えてきて
数日後、髪の毛を洗っていたら手に挟んだ髪がそのままバサッと抜けた・・・
「とうとう来た・・・」脱衣所に用意していた袋には抜けた髪の毛でいっぱいになった・・・。
購入していたウィッグをつけた。
気持ちを盛り上げるため若い子がつけるような茶髪のおしゃれウィッグにしていたが、鏡に映る自分の姿は受け入れられなかった・・・
そして、家族にも脱毛した姿は見られたくなかった。
幼稚園生だった三男は、きっと一緒にお風呂に入りたかったと思うが、私は入ってあげられなかった。。。
職場にウィッグを初めてしていった時はとても緊張感があった。
偽りの姿の自分。どう見ても今までとは雰囲気が違う自分を、周りの人たちからはどんな風に見えるのか・・・
私が乳がんになり治療をしていることを知っていた同僚達は普通に接してくれた。
自分がこの状況や現実を受け入れ、慣れていくしかない・・・そんな気持ちだった。
ちょうど、入院中に一緒だった方からメールが来た。
その方は入院して抗がん剤をしたとのことだったので、食事はどうしていたのか聞いたら
「抗がん剤する前もした後も、普通に食べてるよ。どうせ気持ちが悪くなるなら、しっかり食べて抗がん剤に負けないようにしたほうがいいじゃない。私はそんなに吐き気はなかったよ。髪の毛は、少し抜けてるかな」
そうか・・・そうだよね・・・今まで食事を食べなかったことがなかったのに、抗がん剤する前に食べなかったのが良くなかったんだ・・・だから胃が痛くなったんだ・・・
根拠はないけど、気持ちで負けちゃいけないと思った。
また先生から患者会をすすめられた。その患者会は別の病院内で活動をしていた。
患者会の受付をするとき、「あぁ・・・私はがん患者なんだ・・・」ととても高いハードルを感じた。そして自分ががん患者だと認めなければ・・・とも思った。
でも患者会へ行ったら、みんながん患者で治療が一段落して元気な方もいて、みんなからパワーを頂けた気がした。
抗がん剤治療中の生活や対処方法などみなさんそれぞれ自分が体験したことを教えてくれた。
同世代で治療も1か月違いの方と仲良くなった。以降、ずっとお互い励まし合いながら治療をしてきた。
そして3週間目。2回目の抗がん剤をした。私の場合、3週間ごとに抗がん剤をした。今回はしっかり食べて、自分に大丈夫と言い聞かせて。
ただ、前回と違ったのは、ウィッグをしていたのでベッドで抗がん剤をする時にずれるのが気になってしまったことだった。。。
でも抗がん剤点滴中はやっぱり寝るようにした。少しでも体力を消耗しないように・・・いやなことは考えないように・・・そんな思いからだった。
終わりましたよ・・・声をかけられ起きたが、体がむくんでいてだるかった。
薬は先生に言って吐き気止めなどを少し減らしてもらった。
そして、今回は自分で運転していったので、無性に食べたくなったガーリックパンと紅茶を購入して、家に着いたと同時に食べた。
夜になってから吐き気が始まった。
ただ前回ほどではないが、また2日間はトイレから出られなかった。。。
やはり、月曜日、火曜日は仕事に行けなかった・・・水曜日はがんばって出社した・・・
金曜日の診察の日、また抗がん剤から1週間の様子を先生に話すと「前回とほとんど一緒だね。あなたのパターンはこういう感じだから、自分で治療後の様子がわかってくると、それに対して対処していけるから」と言われた。
そうか・・・そうだよね・・・抗がん剤、あと4回中2回おわったから、あと2回だからカウントダウンして・・・そんなことを考えていた・・・
こども達にも変化が・・・
抗がん剤のたびに、幼稚園生の3男は実家に預けていたが、1週間後に迎えに行っても「家に帰りたくない」と言われるようになってしまった。
私も自分のことで精一杯でこども達のことを見てあげる余裕がなくなっていた・・・
先生にそのことを話したら、「がん患者の親を持つこども達」も悩むことがあると1冊の冊子をくれた。
きっと、こども達も私がたびたび寝込んでしまう姿を目の当たりにして、不安が増していたと思う。
きっと1番の不安はわからないこと。当時はこども達に私ががんになったことは伝えていなかった。
ただ、抗がん剤治療が辛くなり、中学2年生だった長男には抗がん剤治療中に「乳がんになってしまって」と伝えた。割とすんなり受け止めてくれた。
小学5年生だった次男は、「僕は聞きたくない」と言ったので私も言わなかったが、治療が終わった後「実はがんになってしまって治療をしていた」と伝えたら、「そうだったんだ」と受け止めてくれた。
幼稚園生の3男には、小学2年生の頃、学校で話す機会があったのでその時に伝えた。
ただ、小学低学年だとまだ難しかったようだった。6年生の頃に出前授業をした際に理解してくれたようだった。幼稚園の頃の記憶なあまりなかったようだった。ただ何かわからない寂しさとか、不安な気持ちは小学生の時は持ち続けていたように思う。
そして、3回目の抗がん剤も同じような感じだった。ただ少しずつ慣れてきたような気もした。
今回の抗がん剤する時は、寝やすいようにウィッグを外しバンダナを巻くように付け替えた。
ちなみに家にいるときはタオル帽子で過ごした。汗も吸収してくれ、寝やすく良かった。
また食事は夏なのになぜかラーメンとか鍋とかあたたかい食べ物が食べたくて、家族が作ってくれた。
家族にもそのように支えてもらい、がんに負けてはいられない!そんな気持ちがわいてきた。
私は、日中一人でいるのがとても不安だったり嫌なことばかり考えてしまうため、誰かがそばにいてくれるだけでも安心感があった。
特に気持ちの悪い時は、背中などさすってもらえるのも、気持ち悪さが緩和される気がした。
生きているのを実感できた・・・
何人かの友人はメールをくれたりランチに誘ってくれたりし、気分転換をしてくれた。
今まで通り、私に対し普通に接してくれることが何よりうれしかった。
ウィッグをして見た目が変わってしまった自分自身が、偽りの姿のようでとても受け入れられなかったので、普通に接してもらえることは何よりの励みだった。
また、こども達のスポ少のサッカーの試合を毎週応援に行っていたのに、治療中はそれもできなくなった。
何より行けないことがショックだった。
こども達の頑張る姿から、私自身もたくさんのパワーをもらっていたからだと思う。
そしてグランドで「がんばれ~~~!」と大きな声で、他の保護者の方たちと応援することも、普段の生活の発散になっていたのだと思う。
そのような時もずっと支えてくれたママ友が、こども達の試合への送迎をしてくれたり「今日はこんな風にがんばってたよ!」とか教えてくれたりしてくれることが本当にありがたかった。
4回目の抗がん剤の時先生に「今回で抗がん剤終わりですよね?」と聞いたら
「えっ、あなたの場合はあと4回あるんだけど・・・あれっ、スケジュール渡していなかったっけ?!」
この時のショックは計り知れなかった・・・・泣きたかった・・・
まだ半分・・・
でもやるしかない・・・深く考えるのはやめた・・・
職場でも、抗がん剤のたびに月、火曜日を休むため、「あの人、大丈夫?治療のたびに休んでる・・・」そんな風に言われている気がした(自分がそのように思い込んでしまったのかも)・・・そして笑えなくなっていった・・・
診察の時、先生に笑えなくなっている自分のことを相談したら、「あなたががんになったのは、きっと理由がある。その大変な状況を世の中の人にわかってもらえるように、がんのこと知ってもらえるように話してみたら」と言われた。
その時はただ漠然と「そうだよね・・・みんながんの事知らないもんね。私だってよくわかってないし・・・」くらいにしか思わなかったが、後にこの時の言葉が、今の私の活動の原点になったのだと思う。
5回目の抗がん剤は、薬が変わったため症状が少し違った。気持ち悪さはあったものの、トイレから出られないということではなかった。でも体が鉛のように重く動けなかった・・・そして手足のしびれ、また腕の血管痛もあり、シートベルトに手が伸ばせなくなっていた・・・コップは指先に力が入らず落とさないように気をつけた。料理をするときに包丁を落としそうになったこともあった。
また1週間後の診察では白血球が減少しすぎて、白血球を増やす薬を3日間連続で通院し注射した・・・
だんだん抗がん剤の副作用で爪も黒ずみ、横縞模様のような凸凹とした感じだった。
首を絞められたような息苦しさもあった。
ボーっとしていることが増え、2週目以降の体調が回復してくる時期も、気が付いたらソファーで寝てしまっていたこともあり、予定を入れることも守れなかったりすることで怖くなってしまった。
その後、6回目の抗がん剤、7回目の抗がん剤も治療日の夜からだるさがひどく同じような副作用の症状の繰り返しだった。
私の場合、前半4回は吐き気や脱毛の副作用のある2種類の抗がん剤。後半4回は末梢神経にしびれが強く出たり、白血球の減少がひどい種類の抗がん剤だった。
8回目の抗がん剤の後、私は仕事を辞めた。
この時、すでにいろいろなことが考えられなくなっていた。ただただ心が重く、抗がん剤が終わったという安ど感と、これから始まる放射線治療への不安と入り混じっていた。
笑えなくなっていた・・・
先生からは、「治療中は重大な決断はやめた方がいい」とずっと言われていたが、前向きな考え方もできなくなっていた・・・
抗がん剤治療が終わり、約1か月後、放射線治療が始まった。
放射線治療は、私が手術と抗がん剤をした病院には設備がなく、違う病院に通うことになっていた。
放射線治療をするために、診察に行った日、「しみず みちこさん」と呼ばれ立ち上がると、・・・隣の人も立っていた。
驚いたのは、私、その人、そして医療者。
私の名前は、同姓同名が多いため、毎回生年月日も確認されていたが、まさか同時間に、同科で、しかも隣同士で待合にいたのは、奇跡ともいえる。
ただ、放射線治療は毎日通院のため、万が一まちがわれて照射されたら大変と、私は旧姓でよんでもらうことにした。
放射線治療は、すぐに開始するのかと思いきや、そうではなかった。
この日の次に行った時は、照射する場所に印をつけられた。ペンのようなものでXと。
照射するのに左右間違えないようにするためのものらしい。
そして、その印を入浴の際に消さないように気をつけてと言われた。
でも体を洗っているとだんだん薄くなってしまい、その都度書き足された。
また、服装によってはその印が見えてしまうこともあった。
そして、治療が始まった。
放射線治療は、台のような上に寝ころび、放射線技師さんが照射する体の向きを微調整してくれ(約10分くらい)、その後2分くらい2方向から照射するという感じだった。
土日以外の毎日通い合計25回した。約1か月半。
副作用はほとんどなかった。
半分の13回を過ぎたころから、日焼けをした時のようにだんだん肌が赤くなっていく感じだった。
塗り薬をだしてもらった。
25回おわる頃は日焼けが少しひどくなったような感じだった。
若干のだるさがあるくらいで、抗がん剤に比べたらなんでもなかったと思えるほどだった。(私の場合。人によっても違うと思う)
また、そこの病院は照射をするとき暗くなるのだが、天井に北斗七星が浮かび上がるのを見つけた。
先生が少しでも患者さんの気持ちが和らげばと、作ってくれたとのことだった。
その北斗七星を見ながら、がんばれるという気持ちになった。
そして年末最後の日に、放射線治療が終わり、全ての治療が終わった。