これは私のがん体験談です。
人により、治療や治療期間、副作用はちがいます。
またがん患者の心の中も人により違います。
私が感じたがん体験を、患者の一例として読んでいただければ幸いです。
2010年4月15日木曜日。手術台の上。
バックにはサザンの「いとしのエリー」のオルゴールバージョンが流れている。
思ったよりも明るい手術室。
ドラマに出てくる手術室って暗くて、手術開始に、ピカッとライトがついて・・・
そんなイメージとは全く違った。
手術室担当看護師さんに「はい、では手術台に移ってください」と言われ
私「・・・(えっ???自分で移るの???)」
手術台には、病室から運ばれてきたベッドより自分で移る。
手術着が肌蹴そうになりながら、ベッドから手術台へ
「よいしょ」
手術台は、ただの板って感じで
「こんな細い板で落ちないかしら・・・」(不安)
なんて考えていたら、主治医の先生が、手首をくねくね回しながら(体操をしながら)私を覗き込み
「大丈夫だよ」
もうまな板の上の鯉です。。。
でも、先生の「大丈夫だよ」の一言は、本当に安心できた。
そして、「これで、エイリアンとさよならできる」と思っていると、
麻酔科の先生が、「では、麻酔をしますね」
すぅーと私の意識が無くなった・・・
そして・・・
「清水さん、終わりましたよ」
と声をかけられ、目を覚ました。
・・・終わったんだ・・・これでエイリアンが私の体から取れたんだ・・・
半年前の2009年9月。
甲府市から送られてきた乳がん無料検診クーポンで検診を受けることにした。
今まで検診は受けたことがなかった。
転職して4か月。
それまでは、勤務していた旅行会社で基本健診は受けていた。しかし、会社の体制が変わり、パートは検診が受けられなくなった。そして、転職。
それでなのか、虫の知らせなのか、乳がん検診を受けてみようと思った。
女性は、無料という言葉に弱い。
私も無料だから・・・受けたことないし、受けてみようと思った。
そして集団検診の前日。
自己触診をしてみた。
自己触診っていっても、やり方はわからない。
とりあえず、自分の胸を寝転んで触ってみた。
「あれっ、虫に刺されたのかな?」
左胸の内側の下のほうに、毒虫に刺された時のようなプチンとしたふくらみがあった。
「まさかね。きっと虫に刺されたんだ。」
その日はそのまま寝てしまった。
翌朝。
もう一度触ってみた。・・・やっぱり虫刺されがある。
大丈夫だと思うけど、今日の集団検診で聞いてみよう・・・と思った。
集団検診は、公民館だった。駐車場があまりないところで、とても混んでいた。
出る車を待っていたら、やっと1台駐車場が空いた。
「ラッキー。でも時間ぎりぎりだな・・・」
会場はとても混んでいた。私は34番
問診までの待ち時間も長かった。
「次の方、どうぞ」
やっと、私の番。先生が視触診をした。
「はい、いいですよ」
・・・あれっ、何も言われない・・・やっぱり虫刺されだったんだ。先生も気づかないから・・・
「じゃ、次へ行って」
・・・どうしよう・・・聞こうかな・・・でも虫刺されだったら恥ずかしいし・・・
・・・でも・・・
「あの~これって、しこりっていうんですか・・・?」
聞いてみた。
先生は、「えっ?どこ?」と言いながら、もう一度触診をし直した。
そして、看護師さんに「今日は何?マンモ(マンモグラフィー)?エコー?」と聞き
看護師さんが「マンモです」というと、
先生「じゃ、いいや。次(マンモ)に行って」
そして、私はもうその先生にしこりなのか虫刺されなのか確認もできないまま、マンモへ。
マンモもとても混んでいた。
マンモのできる検診車での検診だった。
・・・マンモって挟まれるので痛いと言われるけど、そんなに痛いのかな・・・
なんて考えていたら順番が来た。
お餅をのばすように胸を引っ張られて、機械に挟まれて、
「はい、息を吸って、止めて」
カシャ!
・・・うん、ちょっと痛いけど、そんなに我慢できない痛みじゃないな・・・
「これで今日は終わりです。結果は1か月後くらいになります」と言われて、初めての検診は終了した。
寝るとき。触ってみた。やっぱり虫刺されがある・・・
翌日の朝。触ってみた。。。やっぱり虫刺されがある・・・
気にしないでいよう・・・忘れようとした。
検診から2週間。触ってみた。・・・やっぱり虫刺されがある。
・・・まだ消えない・・・虫刺され・・・かな・・・
気にしないでいよう・・・・また忘れようとした。
考えないようにした。
検診から3週間。知人で医療の知識のある方に今の状況を聞いてみた。
「結果が届いてからでいいと思うけど、心配なら病院へいったほうがいいよ。でも、違う場合もあるしね・・・」と言ってくれた。
・・・違う場合もある・・・そうだよ・・・気にしすぎかも・・・
検診から約1か月が過ぎた10月中旬のある日、検診結果が届いていた。
『腫瘤、異常はありませんでした』
そう書いてあった。
ホッとした。やっぱり違ったんだ。
そしてそれからさらに1か月が過ぎた11月中旬。
まだ虫刺されはあった。
なんとなく大きくなったような気がした。
・・・腫瘤、異常なしって書いてあったから・・・・
気にしすぎ・・・気にしないようにしよう・・・
そして、検査から3か月が過ぎた年末。
なんとなく大きくなってきている気がする。
・・・でも、腫瘤、異常なしって書いてあったから・・・
検査から4か月が過ぎた1月。
その日たまたま行ったセミナーは、乳がん体験者の話だった。
・・・乳がん・・・か・・・
・・・まさかね・・・腫瘤、異常なしって書いてあったから・・・
その頃には、立っていて服の上から触っても、虫刺されがわかる大きさのふくらみになっていた。
母に聞いてみた。
「なんか、あるんだけど・・・これ、何だと思う?」
母「大丈夫だよ、悪いことを考えているとそうなっちゃうから、気にしないほうがいいんじゃない」
母は、そうやって今まで具合が悪くても、自分に喝を入れながら頑張ってきた人だった。
私も病院嫌いだったので、「そうだ、変なこと思っていちゃいけない。大丈夫」
自分で自分をごまかしていた。
そして2月のある日。
同僚に聞いてみた。その頃には、寝転ぶと浮き出てしまう大きさだった。
服の上から触ってもわかる大きさになっていた。
「えっ、何やってるの!!!早く電話!!こんなの異常だよ!!今すぐこの場で病院に電話して!!!」
同僚に怒られた。
私「えっ・・・だって腫瘤異常なしって書いてあったから・・・」
同僚「何言ってるの!!こんなの異常だから。普通じゃないから・・・」
私「・・・・・」
同僚「今すぐ、電話!」
私は、出産をした病院に電話をした。出産をしたときに、乳腺の専門の科があることは聞いたことがあったから。
私「あの・・・左胸にしこりのようなものがあるのですが・・・診ていただけますか」
病院「では、予約になります。10日後になりますが、この日でよろしいですか」
私「えっ、異常があるけど、直ぐには診ていただけないのですか?・・・」
病院「乳腺は、予約制なので一番早い日で10日後のこの日になります」
私「じゃあ、その日でお願いします」
・・・急に不安になった。
病院って、症状があるのにすぐに診てくれないんだ・・・
大丈夫・・・かな・・・
しこりに気づきながら、半年もほおっておいたのに・・・
不安で、押しつぶされそうになった。
その日の夜、旦那に病院の予約をしたことを話した。
「とりあえず、検査してみるしかないよね」
寝転ぶと、コロンとしたエイリアンが浮き出ていた。
受診の日。
先生に今までの経過を話した。
先生は優しく「いろいろ検査してみようね」と言ってくれた。
明らかに異常であることは、先生にはすぐにわかったはず。
でも、不安そうにしている私には、その場では何も言わなかった。
そしてマンモ、エコーをした。
エコーの技師さんもやさしかった。
丁寧に何度もエコーの映像を撮り、そして
「隣に僕の研究室のようになっている機械があって、とっても性能がいいんだ。もう少し、詳しく調べてみたいので、申し訳ないけど隣の部屋に移ってくれるかな」
それでも私は、もしかしたら違うかもしれない・・・と、思い込もうとしていた。
マンモとエコーの写真を持ち、先生の所へ戻った。
先生は、「そうだね、もう一種類の検査もしよう」と言って、細胞診の検査をした。
麻酔をかけて、太い針を胸に刺し、エコーを見ながらがんの細胞を取った。
「それから、CTとMRIの検査もしようね。予約になるので、検査結果は3週間後になるからね」
・・・えっ、結果が出るまで3週間もかかるの?・・・半年間でこんなに大きくなっちゃったのに、3週間もたって私大丈夫なの?・・・
でも、違うかもしれないし・・・
気が重いまま、その日は帰った・・・。
CTの検査の日。
CTは丸いドーナツのような機械で、体を輪切りにしたような画像が取れる機械だった。
造影剤の注射をし、そのドーナツの輪の中を行ったり来たり2回して終了。
造影剤の副作用で具合が悪くならないかのチェックのため30分その場にいて、異常がないことを確認してから帰っていいと許可が出た。
MRIの検査の日。
うつぶせに寝て、寝転んだ板の穴の開いたところに胸をはめて固定された。
カプセルのようなドームのような機械の中に入り、約30分の検査。
動いてはいけないと言われた。
ダメと言われると、なぜか動きたくなってしまう・・・我慢・・・我慢・・・
さらに、狭い閉塞的なカプセルのような中で、考えなくてもいいようなことが頭をよぎる・・・
・・・このまま爆発とかしないよね・・・・と勝手なことを思い緊張した。
そんなこと考えないようにしようと寝てしまおうと思ったけど・・・
技師さん「では、始めます。何かあったらこれを押してください」と言われた。
そして・・・
キーン、ゴンゴンゴン、キーン、ゴンゴンゴンガーン・・・
すごい大きな音
怖い・・・何が起きているの・・・寝てられない・・・でも怖いから寝ちゃおう・・・
じっとしているだけなのに、30分がとても長くて、とても疲れた・・・
初診からいろいろな検査をした約3週間
毎日毎日、不安だった。
・・・もうこれ以上、大きくならないで・・・
毎日毎日、祈っていた。。。
その頃には、外から触ると卵くらいの大きさになっていた。
そして、結果を聞きに行く日。
名前を呼ばれ、診察室に入ると先生が、「ご家族は来ていますか?」
「はい、主人が・・・」
「じゃあ、一緒に入ってもらって」
「この3週間、いろいろな検査をして不安だったでしょう・・・。検査結果が出たからね。いいことと、悪いことがあります。じゃあ、悪いことから言うね。・・・やはり乳がんでした。でもいいことは、今のところ、転移はなさそう・・・」
そして一通りの治療の説明をしてくれた。
手術は2種類あり、部分切除か全摘出か。
部分切除の場合は、放射線治療をすること。
全摘の場合は、傷が落ち着いた2年後くらいに乳房再建ができること。
薬物療法は、病理検査によりホルモン治療、化学療法(抗がん剤)があること。
また、治療の順番も、先に手術をする方法と、先に抗がん剤でがんを小さくしてから手術をする方法があること。
そして、たぶん今すぐ決められないだろうから、この本を読んで、決めてきてね・・・と言って1冊の冊子をくれた。
でも私は「今一番早く、手術できる日はいつですか。もうこれ以上大きくなるのが不安です」と言って、2週間後の手術の日を予約してもらった。
・・・なんかホッとした・・・これでエイリアンとおさらばできると・・・
その後、看護師さんが手術についての説明をしてくれた。
旦那は待合に先に行っていた。
看護師さんの説明を聞いていたら、自然に涙が流れてきた。
・・・えっ、なんで・・・なんで涙・・・
自分でもよくわからなかった。
・・・泣かない・・・だって、エイリアンとおさらばできることになったから・・・
そう思っていた・・・のに・・・
看護師さんが「大丈夫?」って声をかけてくれた。
やさしい・・・
私「病気とか、入院とかしたことがないんです・・・出産以外は。まして手術なんて・・・」
・・・あれっ、自分でそんな風に思っていたの・・・私、心と体がバラバラになってる・・・
看護師さん「大丈夫ですよ。先生はとても器用で、手術も上手だし傷口がきれいで有名なんですよ」
・・・そうなんだ・・・先生、ダイジョウブ・・・かな
涙、止まりました。
そして、その後、肺活量やら血液検査やらいろいろ手術のための追加の検査をした。
会計が終わったのは15時過ぎ。
駐車場に着いて車に乗ると、旦那が最初に言った言葉は「腹へった。新しくできたラーメン屋さんへ食べに行こう!」
・・・えええっ~・・・私、がんって言われたんですけど・・・
・・・おなかなんて、空いてないんですけど・・・
・・・まず、慰めの言葉じゃないの???・・・
・・・しかも、よくこんな状況で新しいラーメン屋のことなんて考えられるよね・・・
と、思ったけど、
・・・新しいラーメン屋、気になる・・・よし、ラーメン食べてがんに負けないぞ・・・
ラーメン屋に行くことにした。
車が走り出し、その中で、妹に電話をかけた。
私「もしもし、私。今病院からの帰りなんだけど・・・」
妹「えっ?病院、どうしたの?」
私「・・・乳がん・・・・って言われた・・・」
妹「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・えっ・・・・・・・?」
私「父と母には、言わないほうがいいよね・・・・心配するから・・・」
妹「(泣いている)・・・・・だって・・・・そんなこと・・・ちゃんと言ったほうがいいよ・・・」
私「そうかな・・・大丈夫かな・・・」
妹「(しゃくりあげながら)こういうことは・・・ちゃんと・・・言ったほうがいい・・・」
私「・・・わかった。大丈夫だから。・・・ラーメン食べてから、実家に行くから・・・新しくできたラーメン屋さんに行くから・・・気にしないで」
妹「わかった。・・・ラーメン食べて来るんだね。私も実家に行ってるから」
ピッ・カチャ。電話を切った。
妹が泣いてくれたので、なんか冷静に話ができた。
きっと妹の頭の中では、乳がんとラーメンと父と母という言葉が入り交り、きっと混乱しているだろう・・・と思いながら・・・。
そして同僚にも電話した。
やっぱり乳がんだって言われたと。
同僚は、「私の知り合いも何人か乳がんの人いるけどみんな元気だから・・・」と言ってくれた。
乳がん・・・そうだよ。乳がんなんてとっちゃえばいいんだから。
もう、エイリアンは手術で取ることになっちゃったんだから。
大丈夫。
冷静に・・・冷静に・・・落ち着け・・・落ち着け・・・
新しいラーメン屋さんについた。
15時過ぎということもあってガラガラだった。
旦那「何にする?オレはえっと、これにしようかな。おなかすいたな~」
・・・本当にこの人私が「乳がんです」って言われたその言葉聞いてたのかしら??
・・・もしかして、その言葉聞き逃していたんじゃない???
・・・なんでそんなに冷静なのよ・・・(怒)
と、心で思いながら、
悔しいから食べてやる!!がんに負けるものか!!
と、思い直し食べ始めた。
そういえば、二人で食事に行くことなんて子供が生まれてからあったかな・・・なんて思いながら。
それから、ラーメン屋を出て実家までの車の中で、こどもたちには何て言おうか旦那に相談した。
旦那は、「ショックが大きいだろうから、言わないほうがいい」と一言。
私は、そうかな・・・ちゃんと知っていてもらったほうがいいんじゃないかな・・・と思いつつ、旦那の意見に従うことにした。
・・・この人やっぱり聞いていたんだ。先生の話。冷静な旦那をちょっと見直した。
実家に着くと、妹が両親と私の弟に話してくれていた。
だからみんなやさしかった。
私「手術が4月15日なんだけど。その後の治療は、手術をして細胞の検査をしてから決まるんだって。とりあえず、入院の時はこどもたちをお願いしたいんだけど」
両親「大丈夫だよ。今乳がんなんて、結構芸能人も多くなっているし、みんなテレビでてるから。大丈夫だよ。」
そうだよね・・・
芸能人、確かに。何人かいたよな・・・
そういえば何日か前に見た夢の中で415という数字が頭に残っていた。
415・・・・4月15日・・・私予知能力があるのかしら・・・
その日は、早く寝ることにした。
ベッドの中で、
これでエイリアンとおさらばできる。今日からカウントダウンしようと。。。ふぅ・・・
そんなことを考えながら寝た。
今までも朝まで眠れなかったことはなかったが、その日も気が付くと朝だった。
翌日、職場の上司に手術することを告げた。
びっくりしていたが、私は「とりあえず治療については、手術の後決まるので、他の人には乳がんと言わないでほしい」と伝えた。
でも、私が関わるスタッフには言うようにとのことで、いつも一緒のメンバースタッフには伝えた。
そして入院の日。
数日前に、夢の中で407という数字が頭に残った。
病室は 407だった。
やっぱり私予知能力があるんだ!!と思ったが、後にも先にもこの夢が当ったというのはこの2回だけだった。
病室は7人部屋だった。
私と同年代の人はいなかったが、すぐに隣の方が声をかけてくれた。
「どうしたの?私はね膵臓がんでね、でも早く見つかったから。
あなたは?心配しなくても大丈夫だよ」
よかった。話せる人がいて。
「私は乳がんで・・・」
あれっ・・・私自己紹介で「乳がんです」だって・・・
乳がん・・・口にするのいやだな・・・すごく高い山を登った気分。
自己紹介が乳がん・・・私、名前があるのに・・・
でもここは病院だし、ここだけにしたいな・・・
翌日は、目の前の方も声をかけてくれた。
「私も乳がんだけど大丈夫。おととい手術だったんだけど。(すたすた歩いて)ほらもうこんなだから。だから大丈夫だよ」
本当に救われた。母と同世代くらいのお二人に本当に支えられている。
がん友・・・がん仲間・・・がん同士・・・そんな風に思えた。
いよいよ手術当日の朝。隣と目の前のお二人が「大丈夫」を連呼してくれた。
手術室へ行く寸前まで「大丈夫!!」「待ってるからね!!」と言ってくれ、手術室へ向かった。
手術が終わり、朦朧とする意識の中、回復室にいた。
旦那と両親が来てくれた。
「大丈夫だからね」
ホッとした。
しかし、その後機械につながれた中で、腰痛との闘いになった。
・・・私きっともう大丈夫だから、とにかく動きたい・・・腰が痛いよう・・・今何時なんだろう・・・朝までまだ何時間もある・・・早くここから出たいよう・・・
一晩中こんなことを考えていた。
そしてやっと朝が来た。
病室に戻るのに「車いす持ってこようか?」と看護師さんに聞かれたけど、「いいえ、大丈夫です。腰が痛いので歩いて戻ります」と言った。看護師さんが寄り添ってくれながら歩いた。
ヨタヨタ・・・あれっ・・廊下がすごく長く感じる・・・まるでスローモーションで歩いているみたい。
脳と体が別々のよう・・・歩きたいのに足が前に出ない・・・
看護師さん「慌てなくていいよ。全身麻酔だったから、麻酔が抜けてないんだよ。だから転ぶと危ないので、ゆっくりでいいよ」・・・優しい・・・
そして病室に着くと「おかえり!!よかったね~これで悪いところはとっちゃったから大丈夫だよ!!」と隣と目の前のお二人が迎えてくれた。
何度この「大丈夫」という言葉に救われただろう。
本当に、お二人には感謝感謝だった。
あぁよかった。大部屋にして。ひとりじゃなくてよかった。
それから、退院の日まで入院生活は楽しかった。
毎日目の前の方と屋上に行き、外を眺めたり、体操をしたり、隣の方とお話ししたり、心の穴を埋めるかのように、いつも誰かと話しをしていた。
夜寝るときは、「これからどうなるんだろう・・・」という不安もよぎったが、先生がいるから大丈夫と自分に言い聞かせ寝た。
家族もお見舞いに来てくれた。
こどもたちが書いてくれた手紙はお守り代わりにベッドの前の机に飾っておいた。
幼稚園生だった三男は、まだ事情がわからなかったせいか『ベッドすわりたい』『テレビが見たい』とか言いながら、『じゃ帰ろう』と割と切り替えが早く、私が寂しくなるくらいだった。
小学生だった次男は、性格なんだろうがいつも目に涙をためてくれていた。
帰るときも『早く治してね』と優しい言葉をかけてくれ、エレベーターのドアが閉まるまでずーっと見つめてくれていた・・・
中学生だった長男は、部活が忙しくお見舞いには来られなかったが、手紙をくれたことが本当に嬉しかった。
旦那は仕事帰りに毎日来てくれた。それが彼のやさしさなんだと思った。いざというときに人間性が出るのだろうけど、この人と結婚してよかったと思えた。
そして退院の日。
旦那が迎えに来てくれた。
私は「大丈夫」を連呼してくれた同室のお二人と離れるのがとてもさみしかった。
でもまた外来で会いましょうと言って別れた。
その日の夜は実家でもお祝いをしてくれた。
しかし、翌日から心の闘いが始まった・・・。
退院した翌日。こどもたちは学校へ行き、旦那は会社へ行き、家の中で一人になった。
何ともいえない不安がモヤモヤモヤっと押し寄せてきた。
これからどうなるんだろう・・・
パソコンをつけてみた。
乳がん 治療 検索
たくさん出てきた。
いろいろな方の体験談も出てきた
読んでみた・・・なんか私とちょっと症状がちがう・・・
私と同じような方はどれかな・・・
何件も何件も読んでみた。
ステージ
マイナス
何だろう
私はどれなんだろう・・・
見れば見るほどわからなくなった・・・その時はまだ病理検査結果が出ていなかったので見てもわからなかったんだけど。
気づいたら、3時間くらいずっと検索していた。
そういえば、先生から前に忠告されたことがあった。
「ネットはいろいろな情報が出ている。見れば見るほどわからなくなる。だから見すぎないようにね。この冊子をあげるからこれを読んで見て。これは正しい情報だから」
そうだ
そういえば、先生がそんなこと言ってたっけ。
そう思いながら、・・・
ひとりでいるときは不安から結局何日もパソコンの前から離れられなくなった。
元気だし家にいてもやることないし、不安になるし・・・こんなことなら会社に行こう。・・・・
・・・これが私の間違いだった。
病理検査結果が出る前=つまり、治療方針が決まる前だったのに、会社に出社してしまったから。
傷病休暇をせっかく会社が取らせてくれていたのに、私は早まってしまった。
会社に行くとみんな心配してくれ「大丈夫?」と声をかけてくれた。
私も少しか弱い感じで・・「なんとか大丈夫です」と答えた。
それから1週間後検査結果が出て、治療方針を先生から説明された。
先生「あなたは抗がん剤をした方がいい。ホルモンは合わないタイプだね。だからホルモン治療はないよ。それと部分切除だから放射線もするけれど、先に抗がん剤からやったほうがいいかな」
私「・・・抗がん剤ですか・・・でも手術も大丈夫だったから、抗がん剤も何とかなりますよね?!」と先生を覗き込んだ。
先生「抗がん剤は・・・そういうわけにはいかないんだ。・・・でもあなたの場合はやったほうがいいと思う。自分の家族でもぼくはすすめる。抗がん剤は副作用が大変だけど、みんなそれを乗り越えている。だからあなたも乗り越えられると思うよ。ただするかしないかはあなたが決めてね」
なんか、受験をして不合格と言われ、この先どうしよう・・・と悩んでいる生徒のような気持だった。
そうだった。手術の説明の時に、先生が、治療方針は手術後に決まるけど、もし抗がん剤になっても何とか乗り越えてほしい・・・中には経済的理由で辞めてしまう人もいるけど・・・再発していることもある。だから、抗がん剤をやったほうがいいとなった場合はやってほしい。
そんなこと言われたよね・・・
やってほしい・・・ではなく、やったほうがいい・・・だったかな。
でも、私はまだ甘かった。
手術は大丈夫だったから、私は副作用も軽いかもしれないし、脱毛もしないかもしれないし・・・かすかな期待をしていた・・・私は「大丈夫」・・・根拠のない自信・・・
そして、抗がん剤投与1回目。
先生が針を刺してくれた。そのあと点滴室へ。
ベッドが何台か並んでいた。
寝るのは得意。
寝ちゃおう。そんな風に思った。
まず吐き気止めの薬を飲んだ。
看護師さん「この薬が最近出たとても良く効く薬で、吐き気を抑えるイメンドカプセルという薬なんです。3日間必ず飲んでくださいね。」
そして、点滴開始。
副作用を抑える薬から点滴され、その後オレンジ色の抗がん剤が投与された。
冷たい液が手首から体に入ってきた。血管を通過しているのがわかった。
カチャカチャカチャ。
看護師さんがストップウォッチで点滴の速さを計る。
大丈夫。大丈夫。・・・何回も自分に言い聞かせた。
カチャカチャカチャカチャ。
投与中、何回も何回も抗がん剤点滴の速さを看護師さんが確認しに来た。
「終わりましたよ。」
声をかけられ、目が覚めた。
体が重い・・・だるい・・・むくんでいる・・・
「気分は大丈夫ですか?」
私「・・・はい。・・・多分・・・」
看護師さん「お気を付けて帰ってくださいね。薬を薬局で受け取り帰ってくださいね。誰か迎えに来てくれていますか?」
私「・・・はい。妹が・・・ありがとうございました」
薬局では、副作用を抑える薬の量に驚いた。
8種類13粒。
今までこんなに大量の薬を1回に飲んだことがない。
薬剤師さん「これは吐き気止め。これは胃腸薬。これは整腸剤。・・・ここに薬の飲み方が書いてありますから。何かあれば連絡下さい」
1回聞いただけじゃわからないよ・・・
がん患者ってみんなこんなにたくさん薬を飲むの?・・・
ご年配の方もこんなにたくさんの薬の飲み方がわかるの?・・・
みんなすごいな・・・
そんなことを思っていた。
家に着くと、ムカムカしてきた・・・
気持ち悪い・・・トイレに行ったが・・・気持ちが悪すぎてトイレから出られない・・・
食事は看護師さんから軽いものの方がいいでと言われたので、バナナしか食べていなかった。(多分、消化の良いものという意味を私が勘違いした)
今まで3食の食事を抜いたことはほとんどなかった。
気持ち悪い・・・
トイレから出た後、胃が痛くなった・・・痛くて痛くて転げまわるくらい・・・
あまりの痛さに、病院へ電話した。
「今日抗がん剤の治療をしたものですが、吐き気と胃が痛すぎて・・・」
病院担当者「水分は取っていますか。水分をたくさん取ってください」
「わかりました・・・」
そうだ。水分を取って、早く薬を出したい・・・そんなイメージで水分補給をした。。。
友人からメールが来た「大丈夫?」と。「気持ち悪い・・・」「何とかなるから気分転換して・・・」「・・・気持ち悪い・・・」
申し訳なかったが「気持ち悪い・・・」以外の言葉が見つからず、それしか返信できなかった・・・
その日は、ずーっとトイレにいた・・・
気持ちが悪すぎて、胃が痛くて、眠れなかった・・・
今までどんなことがあっても眠れなかったことがなかったのに・・・
こんな状況が翌日も続いた・・・
3日目になったら、少し落ち着いてきて食べられるようになった。。。
食事は毎日実家で作って持ってきてくれた・・・ありがたかった
金曜日に抗がん剤をして、月曜日はとても仕事に行ける状況ではなかった。
月曜日、火曜日、水曜日は昼間は実家に行かせてもらい、ほとんど寝ている状況だった・・・
意識がもうろうとしていた・・・だるくて体もむくんでいて・・・
木曜日・・・今日は仕事に行かなければ・・・無理をして行った。
机に座っているのがやっとだった。だるい・・・
金曜日、診察の日だった・・・
先生に抗がん剤の投与後の状況を話した。
そして、副作用を抑える薬が多くて飲めなかったことも・・・(無理をして飲んだけれど)
そして翌週は少し元気になってきた。
2週間目の診察は検査だけだった。
先生からは「そろそろ脱毛が始まるからね」と言われた。
そのとおり2週間を過ぎるころ、抜け毛が増えてきた。
最初は服に抜けた髪の毛が着くようになっていたが、翌日はその抜ける量が増えてきて・・・
まるで枯れ葉がひらひらと落ちるように・・・
枕にはタオルを巻いていた。日に日にタオルにも着く髪の毛の量が増えてきて
数日後、髪の毛を洗っていたら手に挟んだ髪がそのままバサッと抜けた・・・
「とうとう来た・・・」脱衣所に用意していた袋には抜けた髪の毛でいっぱいになった・・・。
購入していたウィッグをつけた。
気持ちを盛り上げるため若い子がつけるような茶髪のおしゃれウィッグにしていたが、鏡に映る自分の姿は受け入れられなかった・・・
そして、家族にも脱毛した姿は見られたくなかった。
幼稚園生だった三男は、きっと一緒にお風呂に入りたかったと思うが、私は入ってあげられなかった。。。
職場にウィッグを初めてしていった時はとても緊張感があった。
偽りの姿の自分。どう見ても今までとは雰囲気が違う自分を、周りの人たちからはどんな風に見えるのか・・・
私が乳がんになり治療をしていることを知っていた同僚達は普通に接してくれた。
自分がこの状況や現実を受け入れ、慣れていくしかない・・・そんな気持ちだった。
ちょうど、入院中に一緒だった方からメールが来た。
その方は入院して抗がん剤をしたとのことだったので、食事はどうしていたのか聞いたら
「抗がん剤する前もした後も、普通に食べてるよ。どうせ気持ちが悪くなるなら、しっかり食べて抗がん剤に負けないようにしたほうがいいじゃない。私はそんなに吐き気はなかったよ。髪の毛は、少し抜けてるかな」
そうか・・・そうだよね・・・今まで食事を食べなかったことがなかったのに、抗がん剤する前に食べなかったのが良くなかったんだ・・・だから胃が痛くなったんだ・・・
根拠はないけど、気持ちで負けちゃいけないと思った。
また先生から患者会をすすめられた。その患者会は別の病院内で活動をしていた。
患者会の受付をするとき、「あぁ・・・私はがん患者なんだ・・・」ととても高いハードルを感じた。そして自分ががん患者だと認めなければ・・・とも思った。
でも患者会へ行ったら、みんながん患者で治療が一段落して元気な方もいて、みんなからパワーを頂けた気がした。
抗がん剤治療中の生活や対処方法などみなさんそれぞれ自分が体験したことを教えてくれた。
同世代で治療も1か月違いの方と仲良くなった。以降、ずっとお互い励まし合いながら治療をしてきた。
そして3週間目。2回目の抗がん剤をした。私の場合、3週間ごとに抗がん剤をした。今回はしっかり食べて、自分に大丈夫と言い聞かせて。
ただ、前回と違ったのは、ウィッグをしていたのでベッドで抗がん剤をする時にずれるのが気になってしまったことだった。。。
でも抗がん剤点滴中はやっぱり寝るようにした。少しでも体力を消耗しないように・・・いやなことは考えないように・・・そんな思いからだった。
終わりましたよ・・・声をかけられ起きたが、体がむくんでいてだるかった。
薬は先生に言って吐き気止めなどを少し減らしてもらった。
そして、今回は自分で運転していったので、無性に食べたくなったガーリックパンと紅茶を購入して、家に着いたと同時に食べた。
夜になってから吐き気が始まった。
ただ前回ほどではないが、また2日間はトイレから出られなかった。。。
やはり、月曜日、火曜日は仕事に行けなかった・・・水曜日はがんばって出社した・・・
金曜日の診察の日、また抗がん剤から1週間の様子を先生に話すと「前回とほとんど一緒だね。あなたのパターンはこういう感じだから、自分で治療後の様子がわかってくると、それに対して対処していけるから」と言われた。
そうか・・・そうだよね・・・抗がん剤、あと4回中2回おわったから、あと2回だからカウントダウンして・・・そんなことを考えていた・・・
こども達にも変化が・・・
抗がん剤のたびに、幼稚園生の3男は実家に預けていたが、1週間後に迎えに行っても「家に帰りたくない」と言われるようになってしまった。
私も自分のことで精一杯でこども達のことを見てあげる余裕がなくなっていた・・・
先生にそのことを話したら、「がん患者の親を持つこども達」も悩むことがあると1冊の冊子をくれた。
きっと、こども達も私がたびたび寝込んでしまう姿を目の当たりにして、不安が増していたと思う。
きっと1番の不安はわからないこと。当時はこども達に私ががんになったことは伝えていなかった。
ただ、抗がん剤治療が辛くなり、中学2年生だった長男には抗がん剤治療中に「乳がんになってしまって」と伝えた。割とすんなり受け止めてくれた。
小学5年生だった次男は、「僕は聞きたくない」と言ったので私も言わなかったが、治療が終わった後「実はがんになってしまって治療をしていた」と伝えたら、「そうだったんだ」と受け止めてくれた。
幼稚園生の3男には、小学2年生の頃、学校で話す機会があったのでその時に伝えた。
ただ、小学低学年だとまだ難しかったようだった。6年生の頃に出前授業をした際に理解してくれたようだった。幼稚園の頃の記憶なあまりなかったようだった。ただ何かわからない寂しさとか、不安な気持ちは小学生の時は持ち続けていたように思う。
そして、3回目の抗がん剤も同じような感じだった。ただ少しずつ慣れてきたような気もした。
今回の抗がん剤する時は、ウィッグを外しバンダナを巻くように付け替えた。
治療中、寝やすかった。ちなみに家にいるときはタオル帽子で過ごした。汗も吸収してくれ、寝やすく良かった。
また食事は夏なのになぜかラーメンとか鍋とかあたたかい食べ物が食べたくて、家族が作ってくれた。
家族にもそのように支えてもらい、がんに負けてはいられない!そんな気持ちがわいてきた。
私は、日中一人でいるのがとても不安だったり嫌なやなことばかり考えてしまうため、誰かがそばにいてくれるだけでも安心感があった。
特に気持ちの悪い時は、背中などさすってもらえるのも、気持ち悪さが緩和される気がした。
生きているのを実感できた・・・
何人かの友人はメールをくれたりランチに誘ってくれたりし、気分転換をしてくれた。
今まで通り、私に対し普通に接してくれることが何よりうれしかった。
ウィッグをして見た目が変わってしまった自分自身が、偽りの姿のようでとても受け入れられなかったので、普通に接してもらえることは何よりの励みだった。
また、こども達のスポ少のサッカーの試合を毎週応援に行っていたのに、治療中はそれもできなくなった。
何より行けないことがショックだった。
こども達の頑張る姿から、私自身もたくさんのパワーをもらっていたからだと思う。
そしてグランドで「がんばれ~~~!」と大きな声で、他の保護者の方たちと応援することも、普段の生活の発散になっていたのだと思う。
そのような時もずっと支えてくれたママ友が、こども達の試合への送迎をしてくれたり「今日はこんな風にがんばってたよ!」とか教えてくれたりしてくれることが本当にありがたかった。
4回目の抗がん剤の時先生に「今回で抗がん剤終わりですよね?」と聞いたら
「えっ、あなたの場合はあと4回あるんだけど・・・あれっ、スケジュール渡していなかったっけ?!」
この時のショックは計り知れなかった・・・・泣きたかった・・・
まだ半分・・・
でもやるしかない・・・深く考えるのはやめた・・・
職場でも、抗がん剤のたびに月、火曜日を休むため、「あの人、大丈夫?治療のたびに休んでる・・・」そんな風に言われている気がした(自分がそのように思い込んでしまったのかも)・・・そして笑えなくなっていった・・・
診察の時、先生に笑えなくなっている自分のことを相談したら、「あなたががんになったのは、きっと理由がある。その大変な状況を世の中の人にわかってもらえるように、がんのこと知ってもらえるように話してみたら」と言われた。
その時はただ漠然と「そうだよね・・・みんながんの事知らないもんね。私だってよくわかってないし・・・」くらいにしか思わなかったが、後にこの時の言葉が、今の私の活動の原点になったのだと思う。
5回目の抗がん剤は、薬が変わったため症状が少し違った。気持ち悪さはあったものの、トイレから出られないということではなかった。でも体が鉛のように重く動けなかった・・・そして手足のしびれ、また腕の血管痛もあり、シートベルトに手が伸ばせなくなっていた・・・コップは指先に力が入らず落とさないように気をつけた。料理をするときに包丁を落としそうになったこともあった。
また1週間後の診察では白血球が減少しすぎて、白血球を増やす薬を3日間連続で通院し注射した・・・
だんだん抗がん剤の副作用で爪も黒ずみ、横縞模様のような凸凹とした感じだった。
首を絞められたような息苦しさもあった。
ボーっとしていることが増え、2週目以降の体調が回復してくる時期も、気が付いたらソファーで寝てしまっていたこともあり、予定を入れることも守れなかったりすることで怖くなってしまった。
その後、6回目の抗がん剤、7回目の抗がん剤も治療日の夜からだるさがひどく同じような副作用の症状の繰り返しだった。
私の場合、前半4回は吐き気や脱毛の副作用のある2種類の抗がん剤。後半4回は末梢神経にしびれが強く出たり、白血球の減少がひどい種類の抗がん剤だった。
8回目の抗がん剤の後、私は仕事を辞めた。
この時、すでにいろいろなことが考えられなくなっていた。ただただ心が重く、抗がん剤が終わったという安ど感と、これから始まる放射線治療への不安と入り混じっていた。
笑えなくなっていた・・・
先生からは、「治療中は重大な決断はやめた方がいい」とずっと言われていたが、前向きな考え方もできなくなっていた・・・
抗がん剤治療が終わり、約1か月後、放射線治療が始まった。
放射線治療は、私が手術と抗がん剤をした病院には設備がなく、違う病院に通うことになっていた。
放射線治療をするために、診察に行った日、「しみず みちこさん」と呼ばれ立ち上がると、・・・隣の人も立っていた。
驚いたのは、私、その人、そして医療者。
私の名前は、同姓同名が多いため、毎回生年月日も確認されていたが、まさか同時間に、同科で、しかも隣同士で待合にいたのは、奇跡ともいえる。
ただ、放射線治療は毎日通院のため、万が一まちがわれて照射されたら大変と、私は旧姓でよんでもらうことにした。
放射線治療は、すぐに開始するのかと思いきや、そうではなかった。
この日の次に行った時は、照射する場所に印をつけられた。ペンのようなものでXと。
照射するのに左右間違えないようにするためのものらしい。
そして、その印を入浴の際に消さないように気をつけてと言われた。
でも体を洗っているとだんだん薄くなってしまい、その都度書き足された。
また、服装によってはその印が見えてしまうこともあった。
そして、治療が始まった。
放射線治療は、台のような上に寝ころび、放射線技師さんが照射する体の向きを微調整してくれ(約10分くらい)、その後2分くらい2方向から照射するという感じだった。
土日以外の毎日通い合計25回した。約1か月半。
副作用はほとんどなかった。
半分の13回を過ぎたころから、日焼けをした時のようにだんだん肌が赤くなっていく感じだった。
塗り薬をだしてもらった。
25回おわる頃は日焼けが少しひどくなったような感じだった。
若干のだるさがあるくらいで、抗がん剤に比べたらなんでもなかったと思えるほどだった。(私の場合。人によっても違うと思う)
また、そこの病院は照射をするとき暗くなるのだが、天井に北斗七星が浮かび上がるのを見つけた。
先生が少しでも患者さんの気持ちが和らげばと、作ってくれたとのことだった。
その北斗七星を見ながら、がんばれるという気持ちになった。
そして年末最後の日に、放射線治療が終わり、全ての治療が終わった。
2011年、年が明けて久しぶりに主治医のいる病院へ診察に行った。
私はトリプルネガティブという乳がんのタイプだったため乳がんの多くの人がしているホルモン治療は合わず、手術、抗がん剤、放射線治療で全ての治療が終わった。
「この後は経過観察になるので、定期的に検診に来てください。定期健診は10年かな。」と先生に言われ、どこか寂しい気持ちになった。
がんの疑いで病院へ行ったのが2010年の3月。約10か月毎週通っていた。
次は4月。その後は半年ごとの定期健診になるとのことだった。
これで治療は終わり。
今後は自分で自分の体に関心を持ち、異変を感じたら病院へ行く。
がんの不安をずっと持ちながら、生活していかなければならない・・・そんな気持ちになった。
告知されてから、先のことは考えなくなっていた。
とにかく、今。
今、目の前にあることを一つずつしていく。
先のこと、1年後、いや半年後、いや1か月後、いや明日すらわからない。
ただただ今を精一杯生きる。
それしか考えられなくなっていた。
仕事を辞めてからは、全てのことに自信を無くしていた。
何をしてもうまくいかない。体調不良で約束した日に仕事ができない。
ボーっとしてしまう・・・など
でも・・・そんな状況の時に・・・救いの神が下りてきた・・・
以前、働いていた旅行会社の上司がバイトをしないかと声をかけてくれた。
月に数日のバイト。
体の負担も少なく、家計的にも助かった。
何より・・・慣れている仕事は体が反応してくれ、自信を取り戻せるきっかけになった。
声をかけてくれた上司や一緒に働く仲間もあたたかく私を受け入れてくれ、サポートしてくれ、
本当に、本当に感謝してもしきれないくらいだった。
1か月たち、2か月たち・・・だんだん笑顔も取り戻せるようになってきた。
仕事も楽しくさせていただけた。
ただ会社の組織体制が変わったため、残念ながらバイトは終了になってしまった。
治療が終わり2年くらい過ぎたころから少しずつ気持ちに変化が出てきた。
「過去は変えられないけれど、未来は変えていける。自分の気持ち次第で」
年月が過ぎていくとともに、少しずつがんの事を気にしない時間が長くなってきたのだと思えた。
そして、仕事も少しずつ増やしていきけるようになった。
その後、ご縁で繋がった方からパソコンの講師の仕事を紹介していただいた。
覚えることは多かったが、パソコンは好きだったし、本当に楽しかった。
講師の先生方もあたたかくご指導してくださった。
現在はサービス業のフルタイムの仕事をしながら、パソコンのバイトもしていきたいと思っている。
~~~私の活動/原動力は~~~
主治医の先生に言われた
「あなたががんになったのは、きっと理由がある。その大変な状況を世の中の人に知ってもらうように、わかってもらえるように話してみたら」
がんになると、がんという病気との闘いと気持ちとの闘いがあると思った。
私の場合は、治療は大変だったけれど周りの人たちの支えによって乗り越えることができた。
家族、友人、仲間・・・
多くの人たちが、私のことを支えてくれた。
そして、その支えや協力があったからこそ、私自身もがんに負けないようにがんばろう!という気持ちになっていった。
治療が終わり気持ちが落ち着いてくると、周りの人たちにもがんの事を正しく知ってもらいたいと思うようになっていった。
特にこども達の保護者は乳がんに気をつけなければいけない年代であるということ、自分の体にも関心を持ってほしいこと、そしてこども達も悩むことがあるということ。だから大人もこどもも親子でがんの事を一緒に考えてほしいと思った。
また、仕事についても治療中は、治療による副作用からできることできないこと、個人差があることなどを職場の人たちに理解してもらい、負担の少ない部署への移動や、体調が悪い時にはしっかり休むことなど対策することで仕事を辞めなくてもいいようにできればと思った。
そんな想いをこども達の通っていた学校の校長先生に伝えたところ、「清水さんが地域の人として話すならいいよ」とおっしゃっていただいた。そして2013年2月から、がん体験談からこども達にがんについて考えてもらう「がん教育出前授業」の活動が始まった。
この活動は、がんになると本人も周りの人たちも悩んだり困ったり、不安になったりすることから、がんという病気を正しく知り、がんとの向き合い方、支え合い、生活、予防についてなど考えてもらいたいという内容で授業を行っている。
特に乳がんは40代で罹患者も多く、こども達の保護者の年代でもあることから、こども達やその保護者にも、もしも身近な人ががんになったら何ができるのかを考えてもらえたらと思う。
またこども達には、未来の自分のために今からできること=予防のことも考えてもらいたいと思う。将来のがんのリスクを減らせるように今の生活習慣を見直しできることから少しずつでもチャレンジしてもらえたらと思う。
また大人向けには団体や企業等でがんに対する正しい理解、がんと生活、がんとの共生、がんと仕事などを考えてもらうきっかけになればと思う。
2023年までの出前授業や出前講座は約120件。(予定を含む)
私の体験は一例だが、体験談からがんという病気を身近に感じ、みんなに考えてもらえるきっかけになったら幸いだと思う。
みんなそれぞれ、環境、生活、考え方も違う。
その中で一つでも自分にできることを考えもらえたら・・・考えたことを行動に移してもらえたら・・・という想いが伝わるように、これからも活動を続けていきたいと思う。
長い体験談を最後までお読みいただきありがとうございました。